詩人金子光晴の自伝『どくろ杯』を読んでゆくうちに、思いがけなく「紅玉堂」という文字に出合った。「紅玉堂」は、私の伯父が昭和の初めごろ経営していた小さな出版社である。
そのころの金子氏は、詩の原稿や随筆を持って、新聞社や雑誌社を、無駄足をしながら歩きまわっていたようである。歌人の松村英一氏のお宅にも出入りしていたので、金子氏の窮状を察した松村氏が「紅玉堂」を紹介してくれたという。<−−−−紅玉堂は、ともかく私のヘたな翻訳詩集「仏蘭西名詩選」と、アルセーヌ・ルパンのなかの『虎の牙』を翻訳して出した>とある。松村氏は当時、紅玉堂発行の「短歌雑誌」の編集長をされていた。
その後、<紅玉堂の本は出たが、支払いの日が来ても金を払わなかった。事務所の方では何度足を運んでも埒があかないので、住居の方へ出かけてみた−−−中略−−−一時間くらいの押問答がつづいた。そばできいていた細君のほうが見ていられなくなって「折角、若先生が遠方から、再三足を運んでみえるんだから、払ってあげたらどうなんです」と言われて彼はしぶしぶ、大きな蟇口を出して、五十銭銀貨ばかりで、三十円を畳のうえにならベた>と記してある。
毒舌家といわれた金子氏により「紅玉堂」の主人は吝嗇で狡猾な男と描かれているが、へたな翻訳詩集などは、売れるという見通しが立たなかったのではないだろうか。
木俣先生が、いつか「紅玉堂も、経営のほうはなかなか大変だったらしい・・・・・・」と、おっしゃったことがあるが、苦しい経営のなかから、ともかく三十円の原稿料を支払って、当時の詩人の窮状を、一時しのぎとはいえ救った伯父の行為を、姪の立場から非常にうれしく感じた。