紅玉堂のこと   辻下 淑子

 毎朝、新聞にはおびただしい数の折込み広告が入ってくる。朝早く家を出なければならない日は、それらに眼を通す余裕などないが、たまたま仕事のない日に「住まいの情報−−マンション特集」という色刷りの広告を拡げてみた。何げなく『ジークレフ自由が丘』の写真と所在地を見て、私は鷲いた。まぎれもなく母の実家の跡だったのである。

 叔父が亡くなったのは三年前の二月であった。子のいない叔母は遺産を守るのに必死の様子だったので、私は遠慮して余り近づかなかった。勿論、私の母は相続権をすぐに放棄した。叔母は、ある信託銀行に依頼して、百五十坪ある土地と家を処分し、代りに一人住むためのマンションを購入することにきめていた。莫大な書籍も全部売り払われることになったので、私は「紅玉堂の本だけは残しておいて−−−−」と頼んだ。

 「紅玉堂」という名に出合うたび、私は身内に巡りあったようななつかしさを覚える。最近では「短歌現代」四月号の小海永二氏の随筆で「家に、大正八年紅玉堂刊行の、松村英一編『現代短歌用語辞典』があった」という一節に出合った。

 紅玉堂の主人、前田隆一は私の母の兄に当る。名古屋から上京して東雲堂に勤めていたが、先輩である西村陽吉氏が婿養子として、東雲堂を継ぐことになったので、独立して紅玉堂を創立したという。「短歌雑誌」も東雲堂から引きついで発行していたが、残念なことに、伯父は昭和七年に数え年三十七歳の若さで急逝した。もともと経営状態が余りよくなかったらしく、伯父の死と共に紅玉堂はつぶれた。

 叔母から「紅玉堂の本を取りにくるように−−−−」という電話があったので、早速出かけた。山のようにあった本は跡かたなく消え、広い家ががらんとしていた。一切、業者まかせだったらしく、「短歌雑誌」の他は、歌集や歌書、文庫など数十冊あるだけであった。しかし、二冊の分厚いスクラップブックは、紅玉堂の業績をあますなく物語っていた。発行した書籍の広告や新刊紹介の書評などが、ぎっしり貼りつけてあった。「万朝報」「都新聞」など現存しない新聞名に隔世の感を抱きながらページを繰っていった。今まで、歌集を主とした文芸関係中心の出版社と考えていたが、紅玉堂の出版内容は多岐にわたっていた。『万葉集全二十巻(総輯)』を初めとする古典書、ためになる少年少女の本と宣伝している児童文学書から『模範洋服裁縫全書』などの実用書にも及んでいた。幼いころ『人魚の唄』『リカルド王子』など繰り返し読んだ記憶がある。

 家へ運んだ数十冊の本を順次よんでゆくうち、ある合同歌集の中に伯父の名を見つけた。前田夏村という筆名であったが、作品は西村陽吉氏に似た歌風で平凡な日常詠であった。誰かに似ている歌は、どんなにすぐれていても何となくむなしい気がする。また「新與歌人」(昭四)に五島美代子氏の短歌を見つけて驚いた。東宮妃の歌の先生として知られ、『母の歌集』の著者でもある氏の作品が、口語調のいわゆるプロレタリア短歌だったのである。作家は一生のうちに何度も脱皮を遂げることを証左してぃるのであろうか。

 版を重ね、一番売れた本は、何と言っても松村英一編『現代短歌用語辞典』だったようである。大震災のとき、無一物で名古屋ヘ逃げて来た伯父は、この本の刊行で店を建て直したという。昭和七年に伯父が他界したのちそれらの紙型は、すぐ人手に渡り、他社から出版されている。

 紅玉堂の住所は、曰本橋区元大工町から、曰本橋区檜物町、本郷区森川町へと移っている。伯父が亡くなってから、すでに半世紀が過ぎた。今、伯父の血縁は私の母と私達きょうだい三人だけになった。兄は判事、弟は銀行員になってしまったので、伯父の仕事を継ぐのは、この私だけのような気がする。

( 昭和五七年七月「形成」 )